インドネシアの象が蟻に勝つには

感染状況のニュースを見るたび毎日ロシアンルーレットをやらされてるみたいで嫌になる。

ロシアンルーレットといえば映画「ディア・ハンター」(シティハンターじゃないよ)、トラウマ必至のほとんど救いの無い鬱映画だが私は好きです。名作扱いされているが冷静に観ると構成やら細かい設定は結構無理があるというか、かなり危うい作りだったりする。そもそも最初はラスベガスでロシアンルーレットをやる映画を撮りたかっただけで、揉めた末に最終的に脚本家が4人になった、なんて話もあり、少なくともマイケル・チミノ監督の思った通りに撮れた訳では無さそうである。ただ、その思うように行ってない雲行きの怪しい感じに何かしらのマジックがかかって「ひどい気分になるし冗長だし色々と意味が分からんが、わかった」みたいな感覚を残す、不思議な映画だと思う。10年くらい前はディア・ハンターやべえ、名作だ!とか人に吹聴して回ってたが、今は「この映画は感想なり感動を他人と共有するものでは無いな」に落ち着いている。コロナ禍でメンタル病んでる人は絶対観ないでください。

 

雨続きだった先週、家に蟻が出た。

運が良かったのか何なのか私は現在、2階建のほぼ1軒家みたいな所に1人で住んでおり、わりあい自然のある地域なので虫が出る。前の家は2階だったので分からなかったが1階には1階特有の虫が出現する。蟻はその筆頭である。
蟻は今回で2回目、1ミリに満たないくらいの小さな種類だった。
私は虫は平気な方である。ゴキブリは気持ち悪いから駆除するが、基本的には蛾もヤスデも蜘蛛も「つまんで外にポイ」で対処している。蜘蛛にいたっては「滞在でしたらご自由にどうぞ」の方が多い。無益な殺生をしたくないのではなく、家の中に死骸があるのが嫌という気持ち。

ただ蟻は何となく不気味というか、拭いきれない恐怖がある。蟻そのものというよりは集団が自宅を占拠していく事の恐ろしさがある。


インドネシアのじゃんけんは日本の「石・はさみ・紙」と違って

「ヒト・象・蟻」
でやるらしい。ヒトは象に潰されるから勝てない。蟻はヒトに潰されるから勝てない。では、象が蟻に勝てないのはなぜか?


「蟻は象の耳の中に入って殺せるから」らしい。

こっわ。そんなん言ったら対ヒトも「寝ている間に耳の中に入って殺せるから」でいけるでしょ。こっわ。ていうか設定がシリアス過ぎやしないか?なぜ殺しあうのか?明日が無いじゃんけんなのか?チキチキ!!2度と朝日が拝めないじゃんけん〜!!なのか?
日本は比喩に比喩を重ねて「紙は石を包み込めるから、かち〜」とか言ってるのに、かたや直喩も直喩、食うか食われるか、3分の1の確率で死ですよ。ロシアンルーレットより救いが無い。もはや気の弱い人なら「どの死に方がマシか」の消去法で永遠に蟻を出し続けそうである。

自宅に出た蟻は、ゴミに出すつもりの空きペットボトル、そのわずかな甘い部分の洗い残しに群がっていたのでそれらを処理したのち、梅雨のような気候が明けたら一気に姿を消した。長く続いた雨で家を追われて必死で生き延びようとしていたのだろう。だが耳の中から殺されるのは死んでも嫌なので居なくなって良かった。

そういえば小学生だった頃、蟻を食べる人が居たな、

と思い出したのはちょうど今くらいの夏日、蝉の鳴き声もピークを迎える8月の中頃だった。3つ上の姉の友達のエリカ(仮名)が「蟻を食うらしい」ともっぱらの噂だった。彼女はエリカという可憐な名前にしては野性味溢れる褐色の肌と猿を彷彿とさせるずば抜けた運動神経の持ち主で「銀紙を奥歯で噛むとキィンときてやばい」みたいな”たいへん興味深いが結果的に体を痛める”事をケタケタ笑いながら勧めてくる優しい悪魔みたいな人だった。

どうしてそんなシチュエーションになったのかは覚えていないが、公園にいるエリカを囲み「蟻、食えるらしいじゃん」となった際、彼女は「それでは食べて見せましょう」といったエンタテイメント性が微塵も無い、まるで部屋の床にいまさっき落ちた柿ピーを拾うような所作で足元に居た蟻をつまんで食べた。

「酸っぱいよ、食べてみ」

当時「ウルルン滞在記」という、俳優やタレントが辺境の集落へホームステイする番組があったが、頭の中でそのテーマ曲が鳴り響き、その場に居た全員が「蟻は酸っぱい」という知見を得、少しだけ賢くなったが実際私も含め全員ただのバカなクソガキなので気持ち悪がりつつも蟻を食べて「酸っぱい酸っぱい」「いやちょっと苦い」「甘いよ」などと感想を言い合っていた。

 

あるいはその頃の我々がインドネシアの象ならば、蟻に勝てたのかもしれない。

Get wild and tough...

みえないしさわれないし その2

嗅覚の話の続きです。一度にまとめて書けって話なんですが。

 

強烈なニオイのひとつに「にんにく臭」がある。

冷静に考えると、にんにく及びネギ系統の食べ物のニオイのレンジというか、振れ幅は物凄い。食べる前と後で全く違う臭気を放っている。私は気分によっては にんにくを食べた後の自分が放つにんにく臭に殺意をおぼえる事があるので、不用意ににんにくばかり食っていると自決しかねない。人のにんにく臭は対象から距離をおけば解決するのでそこまで気にしていない。ただ自分の口は目と鼻の先、いや下、いや、中?ほぼゼロ距離なので要注意である。しかし、しかしだ。

にんにくは、めちゃくちゃうまい。おいしい。おいすぅぃい。
これはにんにくがこの世に登場するにあたって神から与えられた宿命、いや原罪、いや呪い?分からんけど「お前は食べる前、めちゃくちゃ良いにおいがして実際食ってみるとめちゃくちゃ旨いが口臭になった途端にペンチで舌をぶち抜きたくなるくらいクサい」という基本設定・脚本をもとに30時間ほどの研修を受けてからこの世に降臨せしめた感がある。フォルム的にも「オレこんな感じでいいのかな。。」といった、悩ましげな葛藤がうかがえるし、人間の鼻を思わせる形状はまさにニオイを司るものの象徴とも言える。ちなみにBoAが2018年に出したアルバムのタイトルは「私このままでいいのかな」です。

本当に何のひいきも無くジャッジすると、にんにくの「異常な旨さ」と「異常なクサさ」は50対50で拮抗している。快楽を得た分、失うものがあるのだ。すべては等価交換。厳しいようだがしっかりハッキリ、いつだって旨50臭50で向き合ってくれるにんにくは誠実そのものと言える。

だが、その奇跡的なバランス、守られた秩序を乱す言説がある。
それは「にんにくを食べると元気になる」というものだ。

 

騙されてるぞ、と私は思う。にんにくを食べて元気になる訳がないだろう。「にんにくを食べたら元気になる」という情報で元気になった気がしているだけじゃないのか。別に元気になってても良いけど下痢してるだろ、普通に。消化に悪いんだから。ほんとに、一旦冷静に観察してみてくれ、他の食事でも元気出るだろ。とろろの方が確実に元気出るぞ。

何が引っかかるって「食べると元気が出るので、ニオイは仕方ない」みたいな考え方でにんにくを食べようとする、その根性ですよね。や、べつにいいんですよ、別にいいんですけど「宣伝のために仕方なくTwitterやってます」みたいな、いやお前めっちゃTwitter見てるし好きだろ、みたいな。
せっかく旨50臭50でやってたのに、
自分を含め周りを納得させるための理屈30臭50旨20になっちゃうんですよね。旨い!とか好き!というプリミティブな感情が犠牲になってる気がするんですよ。気のせいかもしれないけど。
ネット、特にSNS主体の言語中心の世界になってからこの「見えない何かに弁解し続けている感」というか、単純に存在していてすいません、みたいな感じとか、怖いなぁと思いますね。好きをしっかり理屈で説明できる能力は確かに大事なんだけど、あまり説明しすぎるのも、それこそ「説明できない何か」を失っているような気がするんですよね。奇しくも「好きなことで生きていく」的なライフスタイルが認知され始めてから「好きの説明」が始まった感もあり。

「にんにくはめちゃくちゃ旨いから食います。後はめっちゃクサいっす。さーせん」みたいにシンプルに存在するのにもなかなか苦労する世の中ですね。

私は「そのままでいいよ!」と言いたい。BoAに。あとの人は知らん。 

みえないしさわれないし

ほとんど毎日外出しているのにもかかわらず、私が今だに体調不良を起こしていないのは感染対策がどうとか免疫がどうとかではなく、ただのラッキーでしかない、と確信するくらい日に日に感染症の脅威が迫っているのを感じる。

症状の中に嗅覚・味覚の異常がある。これは昔ひどい鼻風邪をやった時に体験したが、かなりしんどかった。当時はタバコを吸っていて、その味が突然しなくなった事に焦り、あわててコーヒーを飲んだら泥水のような味しかしなくてカップを持ったまま硬直してしまった。簡単に泥水と言っているが実際は泥水に含まれる有機的な気配すら無い、建設現場の生コンクリートの上澄みのような無機質さでもって叩きのめされたのをよく覚えている。

昔から鼻がよく利くので、自ずから匂いフェチというか「におい」に関しては敏感である。昔働いていた職場の、何の交流も無さそうな男女からわずかに(同じ匂いがするな)と思っていたらその二人が不倫していた、みたいな事もあった。タバコをやめてからはその特性はかなり強まっており、今では嗅いだ相手の3日前の晩御飯のメニューがわかる。これは嘘です。

こういう話をすると「クサいにおいとか大変だねぇ」と言われるのだが、「クサい」にも色々あって、引きの画で見ると気持ち悪いものでも拡大すると気持ち悪くなかったりするし、「くせぇ!きめぇ!」という感情の発露はある種の諦め、思考の敗北と言える。でも拡大したってキメェもんはキメェしクセェもんはクセェんだよ馬鹿野郎。という意見もわかる。ただ「クサさ」には必ず理由があって、その根本原因を推察することは決して無駄ではない。

たとえば「風邪の引き終わりのにおい」がある。
風邪のウイルスや外部から侵入した細菌と戦った白血球たち、それらの死骸が喉の両脇にある扁桃のくぼみに溜まる。小さな乳白色のかたまりには件の死骸が数億個ほど集まっているという。これは膿栓(のうせん)といって、普通に免疫系統が機能して扁桃がある人なら多かれ少なかれ誰でも生成されるものだが、この小さな乳白色のかたまりはそのままでもかなり臭う代物なのに、潰すととてつもなくクサい。死骸であっても数億のパワー、その魂が淡い緑の光を纏いながら、ライフストリームへと帰還していく風景すら見える。
風邪の引き終わりは言うなれば合戦後の焼け野原と同じなので、そういった死のにおいが立ち込めているのである。そして風邪の引き終わりが人に移しやすいのは昔から実感を伴って知っているし、今回の感染症も例外ではない。なので私はこの匂いを少しでも察知したらその場から離れる。でもいきなり離れるのも相手の事を考えると何となく悪いなという気がするので呼吸を止めている。これは嘘じゃないです。1秒ほど真剣な目をして、そこから何も聞けなくなるんですよね、私のロンリネスが(ドントタッチ…)と囁くんです。

すれちがいや まわり道を

あと何回過ぎたら

二人はふれあうの

コロナを予見した歌だったんですね。

「目に見えないもの」というと極端なスピリチュアルや陰謀に流れがちな世の中ですが、鼻の穴かっぽじって公園に出かけてすんすんふんふんするのも良いんじゃないでしょうか。

ちなみに今時期で私が好きなにおいは「部屋のクーラーかけたままの状態で一旦風呂に入って、部屋に戻ってきたときのにおい」です。あまり賛同されませんがこの瞬間にタバコの残り香があるとなお良し、です。

 

みなさんどうか無事にお過ごしください。

 

としか言いようがない

最近よく訊かれる事について答えます。

・元気ですか?

はい、とっても元気です。風邪もひかず夏バテもせず、毎日あちこち駆け回っております。少しマスク日焼けしました。
切らしていたCD発売宣伝ポスターが届いたので、またポスター行脚します。

・何か嫌な事でもありましたか?

良い事も嫌な事も普通にあります。

 

・バンドのお二人との関係は良好ですか?

良好です。Nathanはコロナ禍に於いて、バンドの関係性が良くなったケースだと思います。ライブも慎重に判断して出演を決めています。ぜひ観に来てください。配信もあります。

 

Twitterでやっていた、ご飯のレビューは辞めてしまったんですか?

レビューのツイートがどのくらい見られているかを解析した際「あまり反応がない割にたくさんの人が見ている」という結果だったんですが、自分発信の作品やギャグならともかく、「お店や商品の良さを紹介する目的」の投稿に低い数値の反応が載っているというのは「良さ」を損ねているのと同じかもしれない、なんか悪いな、思って辞めました。Twitter特有の雰囲気(いいねと思ってるけどいいねしない)など、いろんな要因があるのは分かっていますが、結果的には自分の力量不足かなと感じています。もちろんおいしいものは常に求めているし基礎代謝は狂ったままなので、ネタは溜まっています。情報としては良いものだと自負しているのでいつか違う形でまとめられたらいいですね。

 

・ワクチン接種はしましたか?

まだしていません。私は様子見していて機会を逃している格好なのですが、接種が始まった頃に言っていた「iPhoneの最新機種が出るたびに買い換える感じでワクチン打っていくのかなぁ」とふざけ半分で喩えた状況に、実際なっているような気がします。
様子見している内に、(現行のiPhone買うより3ヶ月後の新作を待つか…?)という葛藤が生まれて、悶々としている状態です。アジア人の端くれとしてはデルタ株にしっかり対応している機種が欲しいですよね。遺伝子や体質、基礎疾患ごとに欲しい機能を実装したものを自分で選べるようになるのがベストですし、いずれそうなってほしい。いや、でもメールと電話とネットという基本的な機能に対応していれば十分なのでは…じゃあ今ので全然よくないか?むむむでもせっかくデビューするなら新しい方が…あ、高齢者優先だから最新は無理か…しかしある程度レビューは参考にしたいな……
深刻なケースが身の回りで出始めた上に色々と腹の立つニュースも多いので、このくらいの軽口をへらへらと叩いてないとやってられません。
軽口は止めて正直に言うと、まずは現在の(初期型、としますか)ワクチンをいち早く接種した人たちの抗体の持続期間が知りたいですね。健康な30代独身の私よりもワクチンを必要としている4、50代の層に行き渡ってないので、データが取れないじゃないですか。で2、30代に行き渡る頃には最初期に接種した層の抗体の持続期間が怪しくなってくる。
仮に、どの企業のワクチンも100%安全であるとしても、それをどう運用するかで初めて「効果」があらわれるので、反ワクチンとかそういうのは論外として、必要な人に行き渡った後のデータが欲しいですよね。「自由意志で打たなかったのか、予約が取れず打てなかったのか」が混在して病床をひっ迫している現状は非常によろしくないと思っています。「いつまでに接種率〇〇達成出来れば自粛解除」といった目標や目安もなく、「大切な人を守るため」といったフワッとした概念だけではそろそろ限界ですよね。
あと、オリンピックという「カネと事情と都合と配慮の塊」のような、バイアス掛かりまくりの祭典が過ぎた後の政府や民間の動向を見て判断しよう、と私は決めていたので今は「こないだと言ってる事違くないか」の情報を洗っている最中です。ワクチン打つなら今後ずっと打つ事になるので、このくらい慎重でもよくない?というスタンスです。打った人にも打っていない人にも、特にマイナスの感情はありません。「マイホーム、持ち家か借家か」くらい、どちらに対してもフラットです。でも年末へ向けて、寒くなるまでには何とかしたいですね。

 

Twitterをほとんど更新しなくなったのは何故ですか?

ていうかこれですよね。あんだけ使いまくってたんだから訊かれますよね。前半の質問も要は「元気ですか?(Twitter更新してないけど嫌な事あった?)」ですよね。ほんとに、病んでるとかじゃないんですよ。
答えとしては「言葉で説明することができない」なんですが、出来るだけ頑張ってみます。
1ヶ月前くらい前に夜道を歩いていたら突然「あっ」てなったんです。「自分が考えている、思っている事を言葉にする」ことの価値基準というか向き合い方みたいなものがガラッと変わってしまった。いわゆる「沈黙は金」みたいな話よりもっと、ずっと、絶対的なレベルで、とつぜん変わってしまいました。

個人的に「沈黙は金」ってのはどことなく打算が含まれてる言葉だと思います。黙ってた方が得だとか、賢いとか。でも今回のケースはそういうのが一切無くて、自分の意識や思考よりもっと先の部分で反応した感じというか。自分でも変な感じです。普通にTwitter楽しく使ってたし、もともと言葉であれこれするのは好きなので。いわゆるSNS疲れみたいな事でもないし。
揚げ物がいきなり食べられなくなった、みたいな感じですかね、いや喩えが下手すぎるな。いよいよ花粉症になった、みたいな。違う気がする。「長年考え続けていた難問が解けた」感もあるんですよね。なんとなく、悪い事じゃ無い気がするんですよ。


最近知った知識なんですけど、アニメーション制作で、派手なアクション部分における作画は、動きの途中に現実にはあり得ない極端に乱れた絵をいれないと「本当っぽい動き」に見えないそうです。まぁアニメそのものがリアルでは無いだろという指摘は置いといて、そういう意識的な脚色、見せ方の工夫が足りないものは仮にすべて本当の絵(事実)を並べても「嘘っぽい、いびつなもの」になってしまうわけです。
つまり私たちは虚構の見せ方によって対象の本当っぽさ、リアリティを推し量る生き物、いや、別にいちいち推し量っていないにしても、そういう虚構の組み立て方が優れているものに感動したり、安心したり、信頼したりする側面がある。

そもそも言葉にする、というのは誰もが必ず行う創作活動、嘘の取り扱いだと私は思っています。

自分が思ってる、考えている事を本当にそのまま言葉にしたのに伝わらない、もしくは大きな誤解を与えてしまった、という経験は誰にでもあるでしょう。感情のまま書きなぐった深夜の長文メールは今すぐにでも法で規制すべきですよね。政府はいったい何をやっているんでしょうか。感情のまま書きなぐった深夜の長文メール規制しろデモ!!推敲!推敲!国会前集合!!ラブレターは朝書け!深夜はやめとけ!!無修正規制しろ!!おーえす!おーえす!!

 

で、

今までだったらここで「つまり何を言いたいのかというと」と総括し、自己分析してきた人生なのですが、もうそういう事にあまり興味が無い、というか「言葉にすることができない」んですよね。この1ヶ月結構頑張ったんですが、どうやってもできない。「いや、そういう流れだったらつまり君はこういう事が言いたいんでしょう?」と予想される突っ込み全てに頷けない自信がある(なんてひどい文章だ)。

 

だから事務的なやりとりとか、何かアナウンスする目的以外の「言葉の扱い方」がガラッと変わってしまった、としか言いようがないんですよね。やっかいな弊害としては、メールの返事ですね。LINEとかのスピード感ある短文のやりとりと、長文はわりと平気なんですけど、中くらいのボリュームの事務的でない内容の返事とか、結構ぼーっとしちゃうというか、困ってます。病気か?

そのかわりにこういう、冗長で散漫で、何か言っているようでほぼ何も言ってない、炭酸水の水割りのような文章だったらいけるかなー、と思って書いてみたら意外といけたのでTwitterがアレなぶん、また気が向いたら書きますね。でも炭酸水の水割りなんていったいどこの誰が欲し、、やめましょう、こんな悲しい話は。

 

以上、本当っぽく伝わってるといいのですが。

 

ふぉんとの気持ち

一般に、雨の日は「天気が悪い」と言うが、じっさい雨に悪気は無い。「善悪は人が勝手に決めているだけ」という話もわかる。ただそれでも雨が続けば気分は塞ぐし、晴れが続くよりも確実に気持ちをダウナーにさせると思う。俺は雨がけっこう好きなのだが、さすがに「雨は良い天気」とは言えないし、比較すれば断然晴れの方が好きだ。雨の良いところは、選択肢が狭くなって色々諦めがつきやすくなるのと、雨の日ならではの風景や匂いや音が楽しめるのと、あと洗濯物が乾かないからコインランドリーに行ける。

コインランドリーが好きなんだな、たぶん。雨がどうこうじゃなく。きっとそうだ。

洗濯は家で出来るのでいつも乾燥目的で行く。滞在時間は2、30分。時間を持て余すだろう、といつも文庫本を一冊持って行くが読んだ試しがない。回転しながら乾いていく衣服を眺めているだけで30分が終わる。

コインランドリーの独特の空気感、個人と公共のすきま。銭湯ほど近くはないが、役所ほど遠くもない、他人との距離感。無音ではないのに静かな時間がとても好きだ。

当然、行きつけのコインランドリーがある。家から近いコインランドリーは2軒あって、どちらも設備的に変わりはないのだが、少し遠い方に通っている。

俺はそこの店主に惚れている。

と言っても店主の姿を見た事はない。名前も、年齢も、性別も、どんな声をしているのかも知らない。

その店には「ご意見ノート」というものが常設されており、利用客は気づいた事や質問疑問クレームを自由に書き込む事ができる。その意見に店主は赤ボールペンで「〜またご利用ください。店主」と返答、対応してくれる。俺はいつからか回転する衣服よりそれを眺めるようになった。

最後に「直筆で」自分の意見を書いたのはいつだったろう。ネットやデバイスの発達で誰もが意見できる社会になったが、ご意見ノートを読む限り直筆でのやりとりはネット上のそれとは別次元である。

読めないくらい字が汚い人が多い。流麗な字を書けとは言わないし、普段から綺麗に書かなくてもいい。だが何か伝えたい事があるなら読める字で書けばいいのにと思う。そして何とか解読してみると往往にしてクレーム未満の自分勝手な主張が多い。自分が読めればいいような文字と自分だけが分かっている理屈は、同じ性質を持っている気がする。

読みやすい字の人と並べてみた時の説得力がまるで違う。このブログもTwitterもメールも、普段から綺麗なフォントで色んな事が補正されているんだなぁと気づく。

店主は端正な字を書く。小さい頃に見た「大人が書く字」のようなブレなさだ。読めない意見に返事は書かない。それはクールな態度なのか、はたまた本当に読めずに困っているのか定かではないが、はっきり書かれた意見には的確に答え迅速に対応しているので、やはり意識的に無視していると思う。

たまに受けを狙って「僕はこの店から出られるのでしょうか??」などと書く人が居るが、それもガン無視である。一番ダメージを与える方法を知ってるんじゃないかと思う。

一時期、絵やマンガを描く人が増えた時も「ご意見を頂く為のノートです。絵の描き込みはご遠慮ください」と一度だけ書き、あとは無視し続け「反応がないことの虚しさ」を見事に活用し、沈静化させた事もある。そして忘れられないのがマンガ騒動が沈静化してから「マンガ描くなんて迷惑ですよね!私も反対ですー!」と書かれた意見を完全無視していた事。俺はそこでグッときた。そこで馴れ合わないカッコ良さ。敵も味方もない。あるのは正義のみ。孤高の人である。

「トイレが使えない」という意見に対しては「現在トイレは故障中であり今後、修理予定もありません。近隣のコンビニ、スーパーをご利用ください。店主」と返答し、ご意見ノート全体を揺るがす横暴さに客離れが懸念されたが、実際ほとんどの人がそのコンビニ、スーパーで時間を潰しているので判断としては正しい。ネットなら炎上するかもしれないが、直筆は炎上しづらいようだ。「なんで直さないんだ!!」と感情的に反応する人も居たが、どこか文字に気迫が感じられない。直さなくても事足りている事実を文字が語っているように見えた。

 

「ご意見ノート」だからご意見以外のわがままは基本無視。自己主張に走っていないお礼や感想には「ありがとうございます」としっかり答える。問題解決は迅速で的確。とにかくブレない。クール&ドライ。余計なことをしない。

ある日「大学生活中よく利用させてもらいました。この度内定が決まり引っ越す事になりました。4年間ありがとうございました」と小さな丸文字で書いてあった。書かれたばかりのようで、まだ店主からの返事はなかった。俺が見る限り今までに無いタイプのご意見である。

その後何週も晴天が続き、コインランドリーに行くことはなかったが、どうしても店主の返事が気になったので近くを通るついでにご意見ノートを見に行った。すると

「おめでとうございます。あなた様の志が叶いますようお祈り申し上げます。ご利用ありがとうございました。店主」

と書かれており、仕事でも夢でもなく志(こころざし)とした所、クールさの中の温かな配慮に、俺の心はときめいた。

 

という訳で雨はけっこう好きである。

2・2・1

これといって信仰があるわけではないが、ふらっと神社に寄ったりする。

例年どおり5月ごろから気温が上昇し始めたが、この時期の太陽はまだ加減が分かっていないというか極端にギラギラして暑い日がある。そんなとき冷房に頼って極端に涼んだりしてしまうと今度は身体の方が「お前は加減というものを知れよな」とばかりに風邪を引いたりするので、真夏が来るまでは木陰で風に吹かれるくらいがたぶんちょうどいい。そしてここ東京で木陰と風を探すと公園か神社に絞られてくる。こと神社における、自然保護とか緑化といった名目以外で緑が残っている日本の在りようというのは素敵だと思う。

 

参拝。

「パワースポットは自宅」「未来は予想外」だと信じているので特にお願い事はしない。でも作法はちゃんとしたい。手水舎で清めるとか二拝二拍手一拝とかググって調べて、さも昔から染み付いてるかのように振る舞う。別に誰もいないのに。

手を合わせ目を閉じながら「わたしを見てつかあさい、このザマですよ」などと想っている事はゴッドオンリーノウズである。

そのとき、右腕に気配を感じた。薄く目を開けると一匹の蚊がとまっている。

合掌をしずかに解き、始末しようとしたがここでひとつの疑問が持ち上がった。

 

(これは三拍目にならないだろうか?)

 

現在俺は二拝、二拍手をしている段階である。しかしここで蚊を仕留めた場合、その音は神様サイドにとって"一拍"と受け取られやしないだろうか。詳しい事は知らないがこの2-2-1の流れには何かしら意味が込められているはずであり、それを俺が2-3-1としたときに「変拍子でかっこいいね」と言うほど日本の神様は音楽フリークではないと考える。だいいち、古来より血を穢れ(けがれ)としてきたこの境内で自分の血液を見せびらかす行為は一発レッドカードではないのか。

蚊の吸血は続いている。仮に、三拍目を避けるため2-2-1最後の一拝、それも深いお辞儀である、をしようものなら蚊はその動きに驚いて逃げてしまう事だろう。それだけは何を以ってしても避けなければならない。俺は拳を握った。そして思い出した。

「力を入れると蚊は針が抜けず逃げられなくなる」と。

右腕に渾身の力を込め、深く一礼し横目で確認すると、はたしてまだ蚊は逃げていない。うまくいった、、、!

あとはこのまま全力で拳を握りつつ鳥居をくぐればそこでタッチダウンだ。定められたルールを守り、俺は俺の正義を貫いてこの戦いに勝利してみせる。鳥居の外で、決めてやる。そんな決意の中振り返ると外国人観光客がカメラを構えて立っていたのでびっくりしてその拍子に蚊が逃げた。

 

力みから来る熱とかゆみだけが残った。