インドネシアの象が蟻に勝つには

感染状況のニュースを見るたび毎日ロシアンルーレットをやらされてるみたいで嫌になる。

ロシアンルーレットといえば映画「ディア・ハンター」(シティハンターじゃないよ)、トラウマ必至のほとんど救いの無い鬱映画だが私は好きです。名作扱いされているが冷静に観ると構成やら細かい設定は結構無理があるというか、かなり危うい作りだったりする。そもそも最初はラスベガスでロシアンルーレットをやる映画を撮りたかっただけで、揉めた末に最終的に脚本家が4人になった、なんて話もあり、少なくともマイケル・チミノ監督の思った通りに撮れた訳では無さそうである。ただ、その思うように行ってない雲行きの怪しい感じに何かしらのマジックがかかって「ひどい気分になるし冗長だし色々と意味が分からんが、わかった」みたいな感覚を残す、不思議な映画だと思う。10年くらい前はディア・ハンターやべえ、名作だ!とか人に吹聴して回ってたが、今は「この映画は感想なり感動を他人と共有するものでは無いな」に落ち着いている。コロナ禍でメンタル病んでる人は絶対観ないでください。

 

雨続きだった先週、家に蟻が出た。

運が良かったのか何なのか私は現在、2階建のほぼ1軒家みたいな所に1人で住んでおり、わりあい自然のある地域なので虫が出る。前の家は2階だったので分からなかったが1階には1階特有の虫が出現する。蟻はその筆頭である。
蟻は今回で2回目、1ミリに満たないくらいの小さな種類だった。
私は虫は平気な方である。ゴキブリは気持ち悪いから駆除するが、基本的には蛾もヤスデも蜘蛛も「つまんで外にポイ」で対処している。蜘蛛にいたっては「滞在でしたらご自由にどうぞ」の方が多い。無益な殺生をしたくないのではなく、家の中に死骸があるのが嫌という気持ち。

ただ蟻は何となく不気味というか、拭いきれない恐怖がある。蟻そのものというよりは集団が自宅を占拠していく事の恐ろしさがある。


インドネシアのじゃんけんは日本の「石・はさみ・紙」と違って

「ヒト・象・蟻」
でやるらしい。ヒトは象に潰されるから勝てない。蟻はヒトに潰されるから勝てない。では、象が蟻に勝てないのはなぜか?


「蟻は象の耳の中に入って殺せるから」らしい。

こっわ。そんなん言ったら対ヒトも「寝ている間に耳の中に入って殺せるから」でいけるでしょ。こっわ。ていうか設定がシリアス過ぎやしないか?なぜ殺しあうのか?明日が無いじゃんけんなのか?チキチキ!!2度と朝日が拝めないじゃんけん〜!!なのか?
日本は比喩に比喩を重ねて「紙は石を包み込めるから、かち〜」とか言ってるのに、かたや直喩も直喩、食うか食われるか、3分の1の確率で死ですよ。ロシアンルーレットより救いが無い。もはや気の弱い人なら「どの死に方がマシか」の消去法で永遠に蟻を出し続けそうである。

自宅に出た蟻は、ゴミに出すつもりの空きペットボトル、そのわずかな甘い部分の洗い残しに群がっていたのでそれらを処理したのち、梅雨のような気候が明けたら一気に姿を消した。長く続いた雨で家を追われて必死で生き延びようとしていたのだろう。だが耳の中から殺されるのは死んでも嫌なので居なくなって良かった。

そういえば小学生だった頃、蟻を食べる人が居たな、

と思い出したのはちょうど今くらいの夏日、蝉の鳴き声もピークを迎える8月の中頃だった。3つ上の姉の友達のエリカ(仮名)が「蟻を食うらしい」ともっぱらの噂だった。彼女はエリカという可憐な名前にしては野性味溢れる褐色の肌と猿を彷彿とさせるずば抜けた運動神経の持ち主で「銀紙を奥歯で噛むとキィンときてやばい」みたいな”たいへん興味深いが結果的に体を痛める”事をケタケタ笑いながら勧めてくる優しい悪魔みたいな人だった。

どうしてそんなシチュエーションになったのかは覚えていないが、公園にいるエリカを囲み「蟻、食えるらしいじゃん」となった際、彼女は「それでは食べて見せましょう」といったエンタテイメント性が微塵も無い、まるで部屋の床にいまさっき落ちた柿ピーを拾うような所作で足元に居た蟻をつまんで食べた。

「酸っぱいよ、食べてみ」

当時「ウルルン滞在記」という、俳優やタレントが辺境の集落へホームステイする番組があったが、頭の中でそのテーマ曲が鳴り響き、その場に居た全員が「蟻は酸っぱい」という知見を得、少しだけ賢くなったが実際私も含め全員ただのバカなクソガキなので気持ち悪がりつつも蟻を食べて「酸っぱい酸っぱい」「いやちょっと苦い」「甘いよ」などと感想を言い合っていた。

 

あるいはその頃の我々がインドネシアの象ならば、蟻に勝てたのかもしれない。

Get wild and tough...